昭和43年11月28日 夜の御理解



何の稽古でも、心掛けがなからなければ、ほんとに、稽古にならない。習った時だけ、習う時だけ、といったようなものではなくて、それが、えー、日常生活の上にでも、おー、役立たせていくような稽古。例えば、私、今日、んー午前中の、おー、奉仕の時にあの、んー、高芝さんの姪ですが、石井さんという、酒屋さんの娘さんですけども、参っておられます。最近、えー、お茶の稽古をしております。最近、私、気付いておることは、お茶の稽古をさせて頂くというてお届けをさせて頂いてから、此の方、もうその、おー、お茶で習わせて頂く作法通りに、お広前にでも入ってくるんですよ。あの、障子を開けるときでも、出て行くときでも、ここへ来てからでも、今日はあの、お花の稽古をしておるらしいですから、いいお花が、あの生けてあるからと、こっから見るから、どうぞ入ってから見てきなさいて、私が言ったんですよね。それで、お花を見せて頂くでも、ははあ、お茶のときに習う、これは、一つの、いわゆる、手前だなと思うように、ぱっとその、お花を拝見するでも、あの、お茶の時習ったのを、そのままに稽古する。帰るときにもやはり、だーれも見ていないのですけども、私だけが、気が付くわけですよね。ちゃっとこう、作法通りにその、お障子を開けて、そしてまた、向こうでも、その作法通りにお障子を閉めて、帰っていくんです。だから、勿論その、おー、先生からも言われたのでしょう、日常、あの、ここでだけじゃ出けん。家帰ってでもそうしなさいというふうに言われとるに違いないですが、それをあの、守るところにですね、確かに、あの出来る。例えばもう、お茶の稽古行きよっても、家ではもう、がっちゃんひっちゃんしてから、もう、パーッと、襖でも開けたり閉めたりするような事では、本当にあの、お茶の稽古しよる値打ちもないが、それでは、自分のものになってしまうという事がないですね。お茶ならお茶習いよると、その、お茶の雰囲気とか、手前が身に付いてしまって、どこから見ても、隙のない、行儀作法というものが、身に付いておらなければ、していかなければ、あの、お茶の稽古をする値打ちがないように、信心もそうです。教えを頂くときだけ、拝むときだけ、お広前だけというのじゃなくて、それがその、常にそれが発揮される。いつも、心掛けさせて頂けれるということなら大丈夫。それも、その、例えば、あー、最後の仕上げというか、最後の五分間と言うか、ほんなら、今日一日終わらせて頂く間が、それに、えー、その、心がいつも、おー、使うておかなければいけないと思うんですよね。私は、そういうことで、今日はあの、まあ、言うなら、最後の五分間といったようなことで、まあ、今日、おかげ頂いたなあと思ったことがあるんです。それはあの、今日、んー、久留米の、えー、佐田さん達が、親子で竹葉会に出てきておりましたが、叔母さんも、自分の姪に当たります方をお導きしてきておりました。その、とにかくもう、それこそ、もう、完全な、無信論者ですからね。もうそして、もう、とにかく大変な、ここのところを通って、えー、まあ現在、とにかく金さえ儲かれば良いというので、まあ、宿屋の女中さんのようなこと、それも、この宿屋を任せられてなさっておられるというそうですが、あの、まあ、とにかく私は、今日一遍、ここにお参りしたのであって、後はお参りは出来んという事を、しきりに言われるわけなんですよね。自分は、信心はとても出けん。そん、とにかく、あ、何時も叔母さんからいつもお話聞いてるからであって、だから、信心の話はして頂いたっちゃもう、同じこつというごたる風で、もう、全然、もう、あのう、私が行く前に、随分お話も聞いていただいて、原さんも、ちょっと中に入っておられたようでしたが、そのー、もう、信心を、金光様のご信心をしようてん何てんちは思ってないけども、まあ、来てみたといったような雰囲気でした。それで、私、せっかく、私を呼びに来てから、のですから、お話をしてくれと言うことであろうと思うて、お話を、あの、さして頂くんですけども、もう、表情一つ変えないですね。もうあの、まあ、言うならば、何の、何しげにあんた来たのち、お話ながら思うようなふうでした。けれどもあの、せっかく、やっぱり、ここへこらせて頂いておるのですからね。神様にお願いしながら、何か頂いて帰ってもらわなければ、私も相すまん、この人も損だとこう、言うような気持ちで、んー、そしたらあの、ちょうどお茶が出してございましたら、お茶に手がつけてなかった。あの、お番茶が汲んであった。それから、私、あの、茶の間でしたから、あの、おー、改めてあの私が、玉露を出して、それからあの、茶碗のを全部、すぐ代えてしまって、あの、玉露を入れて出したんです。それで、ま、茶飲み話でもさせて頂きながら、お茶を入れさせて頂いて、私が茶碗を、あの、出させて頂いたらですね。それこそ、目が輝くんですよね。というのはその、まあ、これは素晴らしい茶器だというわけですね。この陶器。これは、どこ、小鹿田でしょうか、小石原でしょうかというわけなんです。もう、話を聞いてみるとその、この人は、陶器きちがいというごと、自分方に沢山集めてから、色々その、陶器の愛好者らしいんですよね。ですから、その出された玉露の茶碗がちょうどあの、小石原の、この頃頂いたのを使っておりましたから、それから、お茶が美味しかったこと、それから、陶器の話しになったら、もう私は、こういう陶器なんかを見る、扱うことが好きで、これ、いいものがあるところにはどこにでも行く、どこのお寺さんにも行った、ここにも行った、その雰囲気が好きです。肌触りが好きですと言うて、もう、全然出る暇はなか、参る暇はなか、時間、信心出す暇は、もう、これから先でんなかと言ったような、それから、晩の月次祭どんちいうたら、あ、それが、あーたたちでも、夜の商売じゃけ出けんち言う。もう、なーにも出けんと言う話だったんですよ。ところが、そうして、あのー、してきたら、あのーですね、あのー、その、陶器のことだけには、もうそれこそ、目を輝かせて次々と私があの、そこに、私の周囲にある陶器を見せましたら、もう、たいへん喜んで、まあ、今日は、叔母さん、来てよかったと言うて喜んで帰られるんです。私は、ちょうど四時の御祈念でしたから、四時の御祈念に、こちらでさせて頂いた。そして、お広前に出てきたところが、その御祈念があっとるもんですから、やはり、ちょっと挨拶して帰らんならんと思ったんでしょう、御祈念済むまで待ってるんです。そして私が、えー、御祈念中に頂いたことが、あのー、いつかご理解に頂きましたんですけども、あの、白という色の深さやとうの秋という句があります。その御理解を頂いた。だからね、この、陶器好きな好きはね、この白の色が分かるようになったら、もう、本当のものだ、玄人だといわれておる。例えばあの、柿右衛門が焼き上げる、あの、おー、乳白色の白の濁手というのですね、あれは。あの、濁手の白が分かるようになったら、あのー、いわば、玄人だとこう言われておるように、もう、白といえば、変哲もない色なんですけれども、その白という色の深さや、とうの秋で、その、白の色の深さが分かって来るようになると、その、例えば、陶器好きの、おー、本当の、まあ、醍醐味とでも言うようなものが分かってくる訳なんです。ですから、その、ま、私は、苗字も聞いてませんでしたから、ここへやって参りましたから、ちょうどこの、句のようにね、信心もね、話を聞いただけじゃ分からない。本当にこの、変哲もないような信心の、本当の味わいと言うものは、ちょうど、私たちが、陶器を愛好するようなもんでね、その新味というか、新の味というものが、分からせて頂くようになったら、もう、とにかく、聞いてもらわなければおられんのですよ。人に話さなければおられんのですよ。ね、そらあの、おばさんが、ほんなら、あの、従兄弟の恵美子さんが、あー、話なさるでしょう。もう、話さなおられん。金光様のご信心は、導かな助からんとも言わなきゃ、導いてとも言うてない。けれども、言わなければおられないというのが、佐田さんたちの今の心境でしょうけれどもね、そんなもんですよと言ったら、もう、ほんとにその、んー、こ、また、こらせて頂くというその、ふうなんですよね。おそらく、また来るだろうと思うんですけれども、これなんかは、私の最後の五分間で、この人が、もう、合楽まで行ったばってん、なーにもならじゃったと言ったようなものじゃなくて、はあ、来て良かったというものを与えることが出来た。私も、おー、気持ちの良いお取次ぎが出来たという事になるのです。私が、あのー、茶の間のその、雰囲気であったらですね、もう、また、お茶でも出そうという気持ちもしなかったでしょうし、あー、そんなら、私の性格から言うならですね、ほんならあんた、ここに、わざわざ来んでも良かったっじゃないの。そげん、お願いするこつもなか、私は、何にも頼むこともなかて言うなら。もうその、おー、どういうわけで来たのと言いたいような雰囲気だったですけれどもね。そこんにきが、最後の五分間ですよ。ね。例えば、その、自分の感情、そういう感情もあろうけれども、そこを神様におすがりして、あの、こちらが信心にならせて頂くと。そこからです、ね。その、そうした、あー、その人が、陶器好きであったことから、その、お茶の話が、本当のお茶の話であり、陶器の話であり、それが、最後の四時の御祈念に繋がり、そしてそこに、そういうご理解を頂いてですね。まあ、合楽に、本当にお導きをして頂いてよかったと、今後、なるようなおかげにも、なってくるだろうと思うんですけれどね。やはり、最後の五分間です。ね。ですから、この、感情の上にでもそうです。ね。せっかく、信心の稽古をさせて頂いておるのですから、それが、そういう中にも、やはり、今日の、石井さんじゃないですけれども、例えば、お広前に参ってきてでもです、ね。どこ行ってでも、おってでも、やはり、お茶の、おー、手前と言うかね、その、行儀作法を習っておるならば、その作法が、日常生活の上にもあらわされていかなければ、値打ちもないし、また、本当の上達も見ることは出来ないと、私は思うですね。信心も、何の稽古でも同じこと。いわゆる、最後の五分間のところを大事にしなければいけない。どうかこう、話がこじれてくる。もやもやしてくる。そすと、何か相手の心をぶすっとして、いかにしよる、と、何かもう、あ、まあ、その一言で、もうぶっすり、後の、二の句も告げられないような言い方をする人がありますけれどもね。それではいけない。最後の最後まで信心で行くところ、そこから良いものが生まれてくるように思うんですよ。ね。それがおかげなんです。どうぞ。
中村良一
2005年5月8日